先日ブログで書いたように、数十年前に放映された向田邦子のドラマ集中放送でで私のお茶の間タイムが充実している。
平日は1話見るのがやっとだけど、11日の成人の日の祝日は、その前の土・日曜日と出ずっぱりだったので家でゆっくり過ごしましょうと。
そういう時は、きっと堅実な主婦はまとまった片付けなどをするのだろうけれど、自由時間は私のために使わなければ!と、録画した向田邦子ドラマを集中視聴。
といってもまだ半分も消化できてないのだけれど
良質なドラマって、見続けても、見飽きない。
母親役には加藤治子。
律儀すぎるほど律儀な、
良妻賢母のごとく、
しかし
ぎらっと女の部分を目の奥に感じさせる。
娘に注がれる女だからこそ視線と、母としての視線。
母であると同時に、女でもある。そんな加藤治子が見せる一瞬にゾクッとさせられる。
その娘に田中裕子。
そして娘に絡む男に小林薫。
ある時は兄として、ある時は妹の恋人として登場、またある時は夫として、従兄として、時にはジゴロな男として、また父親として……
二人が見せる男と女の性。
男と女ゆえの業。
蜘蛛の糸のように、もがくほどに絡み合う。
日常の営みに潜む人の業をじっと見詰め続ける向田邦子の視線の鋭さ。
そして、
向田邦子が文章にした言葉の一つ一つに自らの血肉でもって体現する役者たち。
この人が出ているなら、と文句なしにその演技がみたいと思う役者として必ず私の厳選されたリストに入っている小林薫そして田中裕子。
そこに加藤治子が加わるこの3人が描き出す家族の様々なドラマ。
飽きるはずがない。
昨今のドラマではなかなか味わえない芳醇な味わい。
人の世を、男と女をじっと見続けた向田邦子の眼差しに支えられた人の世のドラマ。
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見ていると、子供の頃の思い出と重なる。
あるシーン
お風呂の中で、お湯の上で手ぬぐいを広げ、輪にした両手でその手ぬぐいを握って作るタオル風船。
タオルよりも日本手ぬぐいの方がしっかりと風船が出来る。
小さい頃お風呂に入るたびに遊んでいた。
祖父母に教えてもらったのか……
親に教えてもらったのか……
こういうゆっくりした時間って、
振り返れば、
いつの間にか遠くにいってしまったような……
何時からだろうか
情報がたくさんあふれ出してきてからだろうか
目の前の情報を追い続ける間に
どこかでせっかちに、性急になってきたのかな
そんなこともふと思う。
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こんなシーンも私の子供時代にもあったっけ。
食事の時、横座りする妹に、姉が「○○ちゃん、足!」
食卓に肘ついて食べてると「ヒジ!」、前かがみで食べてると「セナカ!」と姉の一声が。
我が家はテーブルだったので「アシ」は無かったけど、食卓で肘ついて食べてると、一番下の叔母が叱責が飛んできた。
「ヒジ!」
ドラマとおんなじ。
その一言。
我が家は母屋で、祖父母はもちろん、嫁入り前の叔母も一緒に暮らす大所帯だった。私とは9歳しか年齢が離れていない叔母は、しっかり者の姉のような存在。
その叔母には、今でもだけど、しつけも含めずいぶんと世話になっている。
子供の頃は言われたら肱つくの止めるけど、また直ぐに肱をついてしまう。
でも大きくなると、肱をついて食べてる人を見かけると、なんだかだらしなく思えるから不思議。
でもコーヒーを飲む時は別。
コーヒーカップを包むように持って肱をついて、ゆっくりとコーヒーを飲む。というより損なひと時を味わう。
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そんな何気ないシーン。
家族の中の当たり前のようなやり取り。
気遣い。
背中をすっと伸ばして生きる姿勢。
「昭和」という言葉の中に無理やり閉じ込められてしまったような
かつて
「戦前」という言葉で、それまでの生活を封じ込めてしまった戦後日本のように……
こんなドラマを見ていると、やっぱり大事なものを時代とともに、情報の渦の中で、忘れ去って行ってるような………
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ドラマの一こま
2.30年ほど前のドラマ。
当たり前だけど皆若い。
加藤治子さんは昨年お亡くなりになっている。
ナレーションの黒柳徹子さんの声も張りがあって若いこと。
時代設定は昭和初期の戦争前夜。
でもドラマの空気、熱気はちっとも古臭くなく、新鮮ささえ感じる
時代は流れても良質なもの、品位あるものの美しさは変らないものなんだなって思う。
Machi。